アモチゼーション

飛鳥時代の和銅元年(708年)から平安時代中期の天徳2年(958年)まで250年間に、和同開珎から乾元大宝までの12種類の銅貨が発行された。朝廷が発行したことから皇朝十二銭と呼ばれている。原材料の銅の不足と、改鋳益を得るため、改鋳の度に目方と質が落ちた新貨を旧貨の10倍の価値で通用させようとしたことが貨幣の価値や信用を大きく低下させ、民衆の銭離れを引き起こしてしまった(765年の神功開宝の発行の際は、旧貨である萬年通宝と同価での並行通用であった。)。和同開珎発行3年後の和銅4年(712年)10月に「蓄銭叙位法(ちくせんじょいほう)」を出して、銭貨は物の売買の交換手段であることを強調している。 古代においては全く価値体系の違うモノとも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせる事があった。日本最古の貨幣とされる富本銭が流通目的に鋳造されたのではなく厭勝銭(まじない銭)目的であったとする学説や、三途の川の渡し賃として6文銭を棺に入れたと言う古い慣習、古い寺院跡の発掘の際に古銭が併せて出土される事実など、貨幣と宗教の繋がりを想起させる話が多く残されている。 宋銭皇朝十二銭以降、朝廷は貨幣の発行をしなくなり、11世紀前期からは専ら絹が代用貨幣として用いられる時期が暫く続いた。だが、同時にこの時期になると商業が活発化して貨幣の必要性自体は高まってくるようになり、平安時代中期から戦国時代までは、中国との貿易を通じて流入した北宋・南宋の貨幣(宋銭)や明の永樂通寳などがそのまま自国の貨幣として通用することになった。それでも輸入銭だけでは足りなかったため、豪族や大商人が発行した私鋳銭も流通したが、粗悪な出来だったため「鐚銭(びたせん)」と呼ばれて区別された。また鐚銭の多くは数百年の流通により、割れ、欠け、磨耗の著しくなった宋銭などが大半を占めた。「ビタ一文受け取らない」の個人向け国債 とは鐚銭のことである。戦国時代に入ると、明の通貨政策の変更(銅銭の主要通貨からの除外と海禁政策)による日本への銅銭流入の停止と金山銀山の開発が活発となり、砂金および灰吹銀が大口取引に用いられるようになり、やがて金銀貨(領国貨幣)が戦国大名により鋳造されるようになった。当時は東日本では金山が多く、西日本では銀山が多かったために金の使用圏が東日本に、銀の使用圏が西日本に集中する事になり、後世にまで影響を与える事になる。また、鐚銭を巡るトラブルが絶えなかったために室町幕府や諸大名によって「撰銭(えりぜに)禁止令」が度々出され、織田信長・豊臣秀吉によって一層強化されたが、新しい統一政権にはまだ新規の銅銭を発行できるだけの政治的・経済的基盤が乏しく、庶民は厳罰の恐れと実際の流通量減少(明が産銅の減少から銅銭鋳造を事実上停止したために日本に銅銭が入らなくなった)によって物々交換で取引を始めるようになったために、再び銭離れが発生するようになった。重商主義的要素の強いとされる豊臣政権において、一見矛盾するように見られる石高制が取り入れられたのはそうした事情が背景があると考えられている。また過度の貨幣経済の発展は農民の離農を招く恐れがあることから、封建制度を維持させるため敢えて年貢を米で納めさせる政策を取ったものと考えられ、これは徳川幕府にも継承された[1]。 寛永通寳皇朝十二銭が発行されなくなってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られていなかった。皇朝十二銭のあと、貨幣制度に基づいて初めて作られた貨幣は、戦国時代の1567年(永禄10年)ころ武田信玄の命によって作られた甲州金である。しかし、これは資産運用 の勢力下のみで通用した言わば地方貨である。続いて豊臣秀吉が製造させた金貨や銀貨も通貨としての性格は薄かった。 慶長丁銀江戸時代になると貨幣制度が統一され、江戸幕府が貨幣発行益をipo して金貨(小判・分金)・銀貨(丁銀、豆板銀)・銅貨(銭貨)の三貨を鋳造し、全国通用の正貨とした。まず慶長の幣制による金貨・銀貨の鋳造が行われ、続いて1606年に慶長通寳に鋳造されて皇朝十二銭以来600年ぶりの銅銭の公鋳が始められた。2年後には永樂通寳の永勘定(1貫文=金1両)としての流通を禁ずる法令が出されたものの、本格的な通貨鋳造及び全国的な流通に至るのは1636年(寛永13年)に発行された寛永通寳以後の事である(貨幣を発行した場所をそれぞれ金座、銀座、銭座と呼んだ)。金貨・銭貨は計数貨幣(額面価値と枚数で価値を決める貨幣)であったが、18世紀半ばまで銀貨は丁銀、豆板銀といった秤量貨幣(目方で価値を決める貨幣)であった。1765年以降、計数貨幣としての銀貨と併用されることとなり、19世紀初頭の文政年間に入ると分、朱を通貨単位とする計数銀貨が秤量銀貨を凌駕するようになった。 享保小判江戸では金貨が流通する「金遣い(きんづかい)」であったのに対して、上方(大坂)では主として銀貨が流通する「銀遣い(ぎんづかい)」であった。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に三貨の間で両替商による両替が必要であった。公定相場として金1両=銀50匁=永1貫文=鐚4貫文(4,000文)(1609年制定、1700年には金1両=銀60匁=銭4貫文に改定)があったが、実際には相場は変動相場制で高度な経済活動が行われていた。後に幕府は南鐐二朱銀を発行して金銀の換算率の統一を図って一定の成果を収めた。幕府貨幣の三貨の他に米も貨幣として流通し、大名領国では藩札と呼ばれる紙幣も発行されていた(一部には銅銭・鉄銭などの銭貨形式で発行されたものもある)。更に多額の金銭の輸送のリスクを避けるために為替のシステムが発達する事になる。 だが、経済の拡大に伴い通貨の と幕府財政の悪化が深刻化した。このため江戸幕府では度々金銀貨の改鋳が行われた。元禄・宝永(小判1回、丁銀4回[2])・正徳・享保(小判のみ[3])・元文・明和(五匁銀、南鐐二朱判)・文政・天保・嘉永(一朱銀のみ)・安政・万延(小判のみ)の計14回(ただし、一方のみの改鋳もあるので、実際には小判9回、丁銀10回となる)にもわたる改鋳が行われた。このため、江戸幕府最初の金貨である慶長小判の時には現在の単位に換算して量目約17.8g・金含有率84.3%あったものが、最後の万延小判に至っては量目約3.3g・金含有率56.8%と辛うじて金貨の体裁を維持しているに過ぎない水準にまで低下している。幕末には開国によって大量の金貨が流出したために万延の で金貨の引下げを行ったが、実際には大量に発行された、より金含有量の劣る万延二分判が流通を制し、この二分判にも諸藩による贋造が横行し、さらに幾種もの貨幣が並列して流通し非常に複雑な流通実態となったことから、諸外国の反発を買い、改税約書によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないこと、将来的な通貨改革、金銀地金持込により本位貨幣を製造発行する自由造幣局の設立を約束させられ、これを継承した明治政府も高輪談判の結果、通貨の近代化に踏み切ることになった。 明治政府により藩札処分令が1871年(明治4年)に発せられ、藩札は廃止された。同年2月に現在の造幣局である造幣寮を開設し5月に新貨条例を制定した。このときはじめて円という単位が正式に採用された。1円銀貨のモデルとなったのはメキシコ8リアル銀貨で、これは19世紀に貿易決済用としても国際的に流通していた大型洋銀貨(貿易銀貨)で、特に幕末期日本にも流入していたものである。7月に紙幣司(現在の国立印刷局)が設けられ、政府紙幣を製造した後、国立銀行紙幣・日本銀行券などの製造にあたった。1882年日本銀行が創設され1885年に最初の日本銀行券が発行された。 1897年に日清戦争の軍事賠償金を準備金に設定して、紙幣の価値を金と交換できることで保障した金本位制が実施された。公的には上述の新貨条例の際から金本位制が定められていたが、経済力の弱かった当時の日本から大量の金が流失したため、実際にはこの時点まで事実上の銀本位制だった。第一次世界大戦の影響を受けて一時金本位制から離脱したが、1930年(昭和5年)1月に世界の体制に倣って復帰した。その金解禁も束の間、世界恐慌のために1931年12月に金輸出再禁止が実施され、日本銀行券の金兌換券は停止された。その結果金本位制度から管理通貨制度へ移行し、1942年2月制定の日本銀行法により弾力的な管理通貨制度が採用されることになった。 1950年代にアメリカでクレジットカードによる決済が始まり、日本では1960年代から同様のサービスが始まった。貨幣を介さず取引を行う時代が到来し、2007年現在のアメリカでは紙幣の信用がクレジットカードに劣るほどである。ただし、クレジットカードはカード番号の不正利用など問題点がないわけではなく、このような欠点を克服するものとして電子マネーが出現するに至っている。